『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1 をめぐって(一)

表紙を顔に見立てる、これは事例としていかにも溢れているものの、ある種のブック・デザインは特異な(そして、しばしば欠伸の出るくらい凡庸な)類縁性を発揮する。それは、その書物がこの書物自体と似ていることである(歴史的としか形容のできない、書物の持つ日付と区別しがたい装丁があることを私たちは知っている)と同時に、書物を別のものへ――あるときには別のメディアへ――似させる、不気味な経験である。この相似、あるいは相似なき相似はイコンというよりむしろ、シンボルかインデックス作用におそらく分類されるだろう――いや、これから言おうとするのはそうした分類を逃れてしまう小さな差異についてだ。
この経験は、否定的には、つまらないもの(本/人)はつまらないもの(人/本)を装うという予感=習慣として、日々私たちをおそうし、または類縁性を装丁者の名前に表象させる、いわゆる「一発判断」(ジャケ買い?)を可能にさせる。


九月も末に『貧しい音楽』を手にしたとき、その意味で「似ている」ことの予兆を私は読んだ。果たして、その原因及び結果はすぐ後に受け取った『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1(メディアデザイン研究所)によって確かめることができた。前者の装丁を手がけた森大志郎氏は、後者の装丁と本文デザインにあたったschtücco(奥付に記されている正確な名義は、schtücco+optexture、optextureがいかなる組織かは不明)の共同者に名を連ねていることを、事後的に知った。shtüccoの代表取締役である秋山伸氏と森氏とがデザインした書物も、少なからず存在するようだ。そして、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社)という符合……。


『SITE ZERO/ZERO SITE』の版型は新書のそれに近く、若干横に長い。開くと硬質な論文が二段で組まれており、派手にならないタイプされた文字の黒色の際立つ装いと片手に難なく収まるソフト・カバーの感触とのギャップを感じることだろう。一見したところの韜晦は、しかし「人文・社会科学雑誌」としてのもう一つ別の異質さによって変容を被る。(裏)表紙に一切、執筆者の名前が記されていない。私はここに紀要とも人文書ともいわず雑誌という猥雑なジャンルを選んだ『SITE ZERO/ZERO SITE』の公平さを見る。それは雑誌の掲げるマニフェストや(装丁も含む)イメージに、執筆者を拘束しないという態度であり、この装丁までも、各々がこれから携わる単著なり共著、もしくは翻訳で別のブック・デザインの方向性を選べばよい、という任意性を暗示している。その意味で、公平さを「約束」と呼び換えてもよい。だから、「ここからしか始まらない」という漠然とした、そうではあるが危機的な響きを執拗に持続させる名前がこの雑誌には、(おかしな言い方だが)本当に必要だったのだ。一般的に、執筆者が、寄稿した雑誌の印象と結びつけて語られる、これは仕様のないことだ。だが、「サイト・ゼロ」派なる呼称が生まれた場合は失笑をもって遇さねばならない。一つの雑誌という書物に(誌名が参加者が、つまり固有名が)似ることが、愚かさの表現になってはいけない。私たちは、それとは真逆の初々しさを目にすることができるから。


サイトゼロゼロサイト、と験しに口にしてみる。それにしても、諳んじるに冗長性を感じさせなくもない呼称ではないか。ゼロ、ゼロという反復は、(イコール、ゼロ)という回答を連想させずにおかない。迂遠ながら、もう一度、正式な雑誌名を見てみよう。斜線(スラッシュ)記号を境に、二つの語が向き合う。ずれを伴った鏡像関係、先程のゼロの乗法(二乗)とは逆にゼロをゼロで割る(除法)という「賭け」にも近い可能性に面する。「サイト・ゼロ」という略称は必要だとしても(私も使用するつもりだ)、site, zero, / わずか三つの記号の示唆する多面性を見損なわずにいたい。このように感じてしまう私自身がいささか異様なのかもしれないが、この慎ましい名前を持った物質――『SITE ZERO/ZERO SITE』――に打たれる。


責任編集を行なう田中純氏が「テーゼ」で述べる「零年という時間のアクチュアリティ」の行方を、不確かな目ではあっても、見定めてみたい。


schtücco
http://site-zero.net/