地図の効力

 その土地は現実にある。私も歩いたことがある。何者かが所有する土地にはちがいない。長い時間の経過の要所で、所有者も入れ替わった。土地の形状も、境界も変化した。いつか、歩いていた私の前にはいなかった土地の権利者には、肉体がなかった。名前があった。不死ではなかった。
 
 土地の歴史をある程度、知ることができた。すべてを記憶する誰かに聞いたわけではなかった。最初から最後までとはいかなかったが、幸運にも経緯をしるした記録が残されていた。記録作成者は、ひとりの調査員ではなかった。何人。ひとりより多く。作成者の名前も「何人か」記録されていた。その記録にもきっと、記録作成者はいた。彼らには肉体があった。しかし彼らより、その土地が優先し、生きているようにみえた。
 
 土地は広大で、端から端まで歩きとおせなかった。私は地図で知識を得ることにした。そしてほんの一部の過去を知った。地図は何枚かにわかれていた。すべて保管者にたのんで、見せてもらった。ある地図は明らかに間違っているようで、保管者に疑問を告げると、その土地にあてはまる地図はないとこたえた。しかし、明らかに間違った地図は明らかに私の知りたかった土地の真ん中を指示していた。位置はあっているようにみえた。
 うっかり地図が「間違っているのではないだろうか」「信用できないのではないだろうか」と不安を表してしまったとき、保管者の顔は強張り、「正確ではないかもしれない」と強く私の言葉を訂正した。しかも地図の参照する地図が「正確ではないかもしれない」。意地を張って「不正確だろう」とさらに告げていた場合も、同じように答えはずだ。そんな期待があった。「間違っている」「信用できない」は、保管者にとってはタブーとされる言葉だと私は察知した。
 
 地図がないが、土地は現実にある。同時に地図は物質的にある。地図は人の眼に触れるように、通用しているが「正確ではないかもしれない」。そして口には出さないが、保管者は「とにかく、それはそこにあるのだ」と言いたげに感じた。この冗長性。
 
 地図は、単に土地の境界や形状を知ることのできる物質だろうか。別次元で出来事は進行している――というより、潜在的な事象が言葉のやりとりによって生じた隙間から明らかになったのだろう。