チップ・ミュージック、ポップ・ミュージック

音楽の年齢


 ポップ・ミュージックは若さを本質としているように思われる。現在進行形の劇場はまさに「代わる代わる」の短周期での交代、交替をやめない。記録として残された過去のポップ・ミュージックへアクセスすることは、儚い世代の生を顧みることになるだろう。ポップ・ミュージックにおいてヴィデオ、CDといった記録媒体は必然的に「形見」である。それも多くは楽しい「形見」だ。
 同時にポップ・ミュージックも私たちとともに年を刻むことは避けられない。つまり、それは必ずしも青春期に属さないし、「時代のあだばな」ばかりともかぎらない。多数のカタログに偉人として登録されたボブ・ディラン(あるいは別の音楽家)が、カタログの外側でこの時も活動をやめないことに、私たちはポップ・ミュージックにも年齢があることが、生き残りの側面があることに気づく。


ホーム・コンピュータ・ミュージック・リベレーション


 ホーム・コンピュータでは音楽制作のためのさまざまなソフトウェア、言語が開発されてきた。トラッカーやミュージック・エディター、MMLに代表される音楽言語は、アマチュアたるユーザーに作曲者となる権利を与える、リベレーションの役割を果たしてきたといえる。それらで作られた音楽の一種を、現在私たちはチップ・ミュージックないしチップチューンと呼ぶことがある――呼称はさておき、ホーム・コンピュータでのアマチュアによる音楽制作の伝統は、そのハードウェアごとのヴァリエーションと、固有の長さがある。
 ファミコンゲームボーイといった遊びのためのハードウェア、コンソールでは「解放(リベレーション)」が起こったのは比較的最近のことだ。私たちはコンソールでの制作物もチップ・ミュージックやチップチューンに分類する。10代のLSDjゲームボーイ用音楽制作ソフトの一種)使いが同じく10代のLSDj使いの音楽を聴くといった経験が新しいものである点に注意したい。ここには、またコミュニティの活動形態やディストリビューションの問題も絡んでくるだろう。
 ホーム・コンピュータに再び目を移すと、10代のアマチュア音楽制作者は確実に存在した。しかしその多くは隠れたままだったと想像する。日本の場合、インターネット環境が整備される以前の、ホーム・コンピュータでの同人音楽のコミュニティに関しては、調査を要するところだ。ただし、これだけは言える、それは海外よりは控えめであったと。


「シーン」


 私は1982年に発売されたコモドール64というホーム・コンピュータで制作された音楽(SIDと呼ばれる)を主な関心領域としているが、そこ――「シーン scene」――では10代(後半だけではないことを記憶してもらいたい)、20代のアマチュアによる音楽制作が活発であった。私たちはさまざまな理由を考えることができるが、音楽に限らないアマチュア表現者の発表の場であるパーティーと、パーティーでのコンペティションの結果や制作物の記録も含むディスク・マガジンという媒体が活発であったことは非常に大きい。ディスク・マガジンには特定のグループに属するアマチュア――むしろアマチュアとは呼ばず、彼らが専門職に就いているかいないかにかかわらず、シーナー scenerと一般的に呼ばれる/自称する――のインタヴューが掲載されていることも見過ごせない。ディスク・マガジンの制作状況は時代とともに後退してきているが、それらの「遺産」の多数はアーカイヴに登録されており、私たちは気軽にアクセスできる。この容易さ(執念に裏付けられた)は想像を絶するほどだ。
 また、シーナーたちは同じシーナーの音楽ばかりを聴いていたのではないと指摘しておこう。コモドール64の商業ソフトからリッピングされた音楽もまた、パーティで交換されていたのだ。


ポップ・ミュージック?


 チップ・ミュージックは新たなポップ・ミュージックか。ある面ではイエス。それは現在進行形の運動で、めまぐるしい世代交代がある一方、ホーム・コンピュータと同じ位の、20年以上のキャリアをもつ制作者もいるから。では従来のポップ・ミュージックとの差異だが、「形見」に相当するものがデジタル・データに偏っているという点だ。
 ポップ・ミュージックにおける一般聴衆のアクセス可能な記録媒体は時代とともに移り変わっていった。再生媒体もしかり。レコード、カセット、CD、高品位のCD、VHS、DVD、BD。形見というと、私たちはまずかけがえのない、一つだけのものと想像する。だが、ポップ・ミュージックの場合、それは古びてゆく、劣化するものだ。ところで私たちは、今音楽を、買うかリッピングを行うかをして、コンピュータの記録媒体にデータとして保管できる。
 チップ・ミュージックにもむろん、FDというかつては主流であった、劣化を宿命とする記録媒体があった(ある)。しかし制作物の圧倒的多数は合法的に、違法に、あるいはグレーゾーンの間で、デジタル・データとして蓄えられており、自前のコンピュータからアクセス可能だ。音楽制作されたホーム・コンピュータの絶対数は減少するが、デジタル・データは「生」のものとして保管されていく。
 またチップ・ミュージックもポップ・ミュージックと同じく、ライヴで演奏されることがある……こうやって見ていくと、チップ・ミュージックはやはりポップ・ミュージックと同定して良い気がするが、果たしてどうだろう? 期を改めて記述したい。
 半永久的な形見、それが鍵となるだろう。

地図の効力

 その土地は現実にある。私も歩いたことがある。何者かが所有する土地にはちがいない。長い時間の経過の要所で、所有者も入れ替わった。土地の形状も、境界も変化した。いつか、歩いていた私の前にはいなかった土地の権利者には、肉体がなかった。名前があった。不死ではなかった。
 
 土地の歴史をある程度、知ることができた。すべてを記憶する誰かに聞いたわけではなかった。最初から最後までとはいかなかったが、幸運にも経緯をしるした記録が残されていた。記録作成者は、ひとりの調査員ではなかった。何人。ひとりより多く。作成者の名前も「何人か」記録されていた。その記録にもきっと、記録作成者はいた。彼らには肉体があった。しかし彼らより、その土地が優先し、生きているようにみえた。
 
 土地は広大で、端から端まで歩きとおせなかった。私は地図で知識を得ることにした。そしてほんの一部の過去を知った。地図は何枚かにわかれていた。すべて保管者にたのんで、見せてもらった。ある地図は明らかに間違っているようで、保管者に疑問を告げると、その土地にあてはまる地図はないとこたえた。しかし、明らかに間違った地図は明らかに私の知りたかった土地の真ん中を指示していた。位置はあっているようにみえた。
 うっかり地図が「間違っているのではないだろうか」「信用できないのではないだろうか」と不安を表してしまったとき、保管者の顔は強張り、「正確ではないかもしれない」と強く私の言葉を訂正した。しかも地図の参照する地図が「正確ではないかもしれない」。意地を張って「不正確だろう」とさらに告げていた場合も、同じように答えはずだ。そんな期待があった。「間違っている」「信用できない」は、保管者にとってはタブーとされる言葉だと私は察知した。
 
 地図がないが、土地は現実にある。同時に地図は物質的にある。地図は人の眼に触れるように、通用しているが「正確ではないかもしれない」。そして口には出さないが、保管者は「とにかく、それはそこにあるのだ」と言いたげに感じた。この冗長性。
 
 地図は、単に土地の境界や形状を知ることのできる物質だろうか。別次元で出来事は進行している――というより、潜在的な事象が言葉のやりとりによって生じた隙間から明らかになったのだろう。
 

謝辞

大谷さん、拙文の紹介とコメントありがとうございます。
本当に「遅れ馳せ」になってしまいましたが、「民衆(的)」が賭札となるように、これからも局所から書いていきたいと思います。
安岡さんの『僕の昭和史』は、一昨年の年末年始に読んだ覚えがあります(また、それが相応しかったような記憶も)。
小さな逸話の集積が、それも何度も語り直されていることに由縁する淡々とした(貧しい?)記述が魅力的でした。
「ベクトルズ」も文学フリマの方で落手させていただきました。


大谷能生の朝顔観察日記

『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1 をめぐって(一)

表紙を顔に見立てる、これは事例としていかにも溢れているものの、ある種のブック・デザインは特異な(そして、しばしば欠伸の出るくらい凡庸な)類縁性を発揮する。それは、その書物がこの書物自体と似ていることである(歴史的としか形容のできない、書物の持つ日付と区別しがたい装丁があることを私たちは知っている)と同時に、書物を別のものへ――あるときには別のメディアへ――似させる、不気味な経験である。この相似、あるいは相似なき相似はイコンというよりむしろ、シンボルかインデックス作用におそらく分類されるだろう――いや、これから言おうとするのはそうした分類を逃れてしまう小さな差異についてだ。
この経験は、否定的には、つまらないもの(本/人)はつまらないもの(人/本)を装うという予感=習慣として、日々私たちをおそうし、または類縁性を装丁者の名前に表象させる、いわゆる「一発判断」(ジャケ買い?)を可能にさせる。


九月も末に『貧しい音楽』を手にしたとき、その意味で「似ている」ことの予兆を私は読んだ。果たして、その原因及び結果はすぐ後に受け取った『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1(メディアデザイン研究所)によって確かめることができた。前者の装丁を手がけた森大志郎氏は、後者の装丁と本文デザインにあたったschtücco(奥付に記されている正確な名義は、schtücco+optexture、optextureがいかなる組織かは不明)の共同者に名を連ねていることを、事後的に知った。shtüccoの代表取締役である秋山伸氏と森氏とがデザインした書物も、少なからず存在するようだ。そして、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社)という符合……。


『SITE ZERO/ZERO SITE』の版型は新書のそれに近く、若干横に長い。開くと硬質な論文が二段で組まれており、派手にならないタイプされた文字の黒色の際立つ装いと片手に難なく収まるソフト・カバーの感触とのギャップを感じることだろう。一見したところの韜晦は、しかし「人文・社会科学雑誌」としてのもう一つ別の異質さによって変容を被る。(裏)表紙に一切、執筆者の名前が記されていない。私はここに紀要とも人文書ともいわず雑誌という猥雑なジャンルを選んだ『SITE ZERO/ZERO SITE』の公平さを見る。それは雑誌の掲げるマニフェストや(装丁も含む)イメージに、執筆者を拘束しないという態度であり、この装丁までも、各々がこれから携わる単著なり共著、もしくは翻訳で別のブック・デザインの方向性を選べばよい、という任意性を暗示している。その意味で、公平さを「約束」と呼び換えてもよい。だから、「ここからしか始まらない」という漠然とした、そうではあるが危機的な響きを執拗に持続させる名前がこの雑誌には、(おかしな言い方だが)本当に必要だったのだ。一般的に、執筆者が、寄稿した雑誌の印象と結びつけて語られる、これは仕様のないことだ。だが、「サイト・ゼロ」派なる呼称が生まれた場合は失笑をもって遇さねばならない。一つの雑誌という書物に(誌名が参加者が、つまり固有名が)似ることが、愚かさの表現になってはいけない。私たちは、それとは真逆の初々しさを目にすることができるから。


サイトゼロゼロサイト、と験しに口にしてみる。それにしても、諳んじるに冗長性を感じさせなくもない呼称ではないか。ゼロ、ゼロという反復は、(イコール、ゼロ)という回答を連想させずにおかない。迂遠ながら、もう一度、正式な雑誌名を見てみよう。斜線(スラッシュ)記号を境に、二つの語が向き合う。ずれを伴った鏡像関係、先程のゼロの乗法(二乗)とは逆にゼロをゼロで割る(除法)という「賭け」にも近い可能性に面する。「サイト・ゼロ」という略称は必要だとしても(私も使用するつもりだ)、site, zero, / わずか三つの記号の示唆する多面性を見損なわずにいたい。このように感じてしまう私自身がいささか異様なのかもしれないが、この慎ましい名前を持った物質――『SITE ZERO/ZERO SITE』――に打たれる。


責任編集を行なう田中純氏が「テーゼ」で述べる「零年という時間のアクチュアリティ」の行方を、不確かな目ではあっても、見定めてみたい。


schtücco
http://site-zero.net/

「ラ・メール」「ペンギン・クエスチョン」「80年代」

詩人ぱくきょんみの広範な執筆領野は、二十年来のエッセイを編んだ『いつも鳥が飛んでいる』(五柳書院、2004)の刊行をもって、一般の読者に認められるところとなったと言ってよい。裏を返せば、ポジャギの写真にくるまれたこの本を編集された小川康彦さんの辣腕によって、二冊の詩集と一冊の随筆集(当時)に隠れれて知られざるにとどまっていた詩人が残した軌跡は、ある程度限定された、ということもである。二十年もの間、同じ数誌に書きつづけることは却って難しいから、初出の場が多様なことに別段驚かなくてもよいのではないか。こう問う選択も、可能的ではある。ただ、ぱくさんが編集者でもあるという事実と、そして小川さんが説得的に成し遂げたと推測される探索によって、個人がその成果を補填する試みは、あまり「成果のあがらない」結果(つまり、生産的ではない)が待っているのだろう。ひょっとすると書誌はすでに出来ているかもしれない、と私は夢想する。

ざっと以上が、80年代における詩人の詩やエッセイを三誌に限って図書館で調査した感想になる。その雑誌とは、「現代詩ラ・メール」(書肆水族館・思潮社〔発売〕、1983-93)、「ペンギン・クエスチョン」(現代企画室、83-84)、「80年代」(野草社・新泉社〔発売〕、80-90)。


「現代詩ラ・メール」は、新川和江と吉原幸子の両氏が編集に携わり、47号まで続く間、多くの女性詩人たちに発表の場を与えた(男性詩人による寄稿もある)。各号の特集を主題として、各々の詩やエッセイが編まれるが、「現代詩手帖」より少ないか同じ程度の頁数のなかで、二段組をせず、毎号かなりの詩人を紹介している。


・詩 約束
第1号(作品特集=女性詩・水平詩)、1983年7月1日、128-129頁

・エッセイ 今日も一日ごくろうさん
第3号(特集=現代の相聞)、1984年1月1日、80-81頁

・詩 風船
第8号(特集=少女たち)、1985年4月1日、66-67頁

・詩 思いだそうとしたけれど――練馬区早宮
第17号(特集=街へ――何が見えるか)、1987年7月1日、40-41頁

・エッセイ ことばの向こうに――がートルード・スタイン『地理と戯曲』をめぐって
第21号(特集=女と男)、1988年7月1日、126-133頁


「ペンギン・クエスチョン」の編集人は中西昭雄。現代のかわら版と称した同誌は、表紙に見える「報道・評論・解説・冗談」の四分野も示唆するように、文芸誌とも括りがたいかなり雑多な情報誌。政治を扱いながら月刊誌でこんなに寄稿者に幅のある雑誌もめずらしい。休刊号の特集は「秩父事件百年記念」。書体構成を含むデザインに府川充男がかかわった創刊準備号および創刊号と、それ以降の号では、まったくと言わずとも、かなり質的な違いが感じられる(創刊準備号の誌面は、築地電子出版で確認可能)。岡崎乾二郎も、コーナー内のオブジェ制作で参加しているほか、編集部の原田信一の文に浜田洋子がイラストを描いていたりするのもユニークなところ。


・インタヴュー 異国籍の生活の中で 「わからないこと」を大切にしていきたい
第0号(通巻1号)、1983年5月25日、45頁

・エッセイ ダイナマイトばこにしこんだもやし――安本末子『にあんちゃん
第4号、1984年1月1日、30-31頁
□イラスト=岡崎乾二郎


・BACKBONE......PENGUIN(ペンギン・アイ)
第1号、1983年10月1日、81頁
□作品制作及びデザイン=岡崎乾二郎

・HANGER/PENGUIN(ペンギン・アイ)
第2号、1983年11月1日、77頁
□制作=岡崎乾二郎

・私は、大衆の味方です(ペンギン・アイ)
第7号、1984年4月1日、56頁
□制作=岡崎乾二郎、写真=勝山泰佑

・とまり木(ペンギン・アイ)
第9号、1984年6月1日、68頁
□制作=岡崎乾二郎、写真=勝山泰佑


「80年代」は、たとえば今日の「ロハス」にも認められるような、60年代以降の政治のエコロジカルな転回と精神主義(そして児童教育)の折衷を地でいった一つの雑誌だと言えるだろう(90年代に入ってから、「自然生活」と名を改める)。そのことは創刊から津村喬が編集に参加していたことに象徴的で、自然回帰の傾向がバックナンバーが新しくなる程深まる印象を持ったが、80年代前期〜中期には李銀子や真木悠介も寄稿しているなど、雑誌として開かれていた一面もある。


・エッセイ いま、女は〝女〟の真似をするけれど
第16号(特集=私のエロス)、1982年7月1日、20-25頁
□朴京美名義。


一篇の詩やエッセイに「すべて」を見通すためのすじみちがない以上、詩人の仕事を断片的に追うことはそれ自体トポスとしてあらしめるために、抜け穴や細い道を縫うように、別の場へ接ぎ木されてしかるべきだろう。

大谷能生『貧しい音楽』

 問題。君に見えているものを人々に見させること、それも、君が見ているようにはそれを見ていない機械を間に介して。

† そして、君に聞こえているものを人に聞かせること、君が聞いているようにはそれを聞いていないもう一つ別の機械を介して。*1

0.『貧しい音楽』へようこそ

サックス奏者のキャリアを積むとほぼ同時、もしくはそれ以前より彼はジャズと即興を拠点にリスニングという普遍的かつ特殊な行為を再考・探査する機会を、みずからに課してきた。その手立てとして、マイルス・デイヴィスをひと際特別な参照枠として用意しつつ、対象も形式も雑多に、音楽をめぐって、いや本書に流れる企図に寄り添うなら、音楽がある器をともなって音楽として起ち上がる(未来形の)力学と歴史のために、精力的な執筆をつづけてきた。近年ますます活動の幅を拡げる著者の原点である音楽批評誌『エスプレッソ』への寄稿を主軸に、十年来の原稿とインタヴューを集め、さらに書き下ろしを追補、いかにもぶっきらぼうな表題を掲げ音楽批評家として世に問う初めての本が、ここにある。先日青山ブックセンター本店で行われた「リスニング&リーディング」に参加したときのこと、刷り上ったばかりの本書を片手に、謙遜もあったにちがいないが(自分は)歴史家ではない、と呟く声が会場の主から聞かれた。だが、流布するどんな大衆音楽論よりも真摯な歴史意識に裏打ちされた大衆的、むしろ民衆的な音楽論(深沢七郎の『楢山節考』が最初に置かれた文章に援用されているのは偶然ではない)として、著者の文章はこれから読まれて行くだろう。深夜に一枚のCDをかける、或いはハミングするでも良い、単純な身振りから音楽と付き合うことは始まる。このときに必要な深切さをわたしたちは脆くも見失ってしまいやすい。生活の基盤となる諸々の技術、音楽経験を大切な友と自力で恢復するためのつつましくあるべき者の技術が『貧しい音楽』には詰まっている。

1.音楽の帰属、音の帰属

「せせらぎ」とか「さえずり」とか「ざわめき」とかいった語を用いるとき、すでにいくらかは音楽の比喩的表現となっている。発生源が自然と人工いずれに帰せられるかは問わない。窓外の風雨の持続や自動車の間歇的な通過、犬やキッチンの立てる物音や不分明な塊として漫然と認めるにすぎない街中の混濁した雑音から/を通して、わたしたちは音楽を聴くことができるし、或いは耳が拾ってしまったランダム・ノイズに儚い音楽の影を事後的に認める。与えられた場に応じて即興的に構成されるこれらの「音楽」を、はたして芸術(作品)と呼んで良いものか。匿名的な音の広がりが意図的/無意識的に音楽へと限定される瞬間は、日常のなかにいくらでも潜んでいるというべきである。この自明性を問うにあたり、著者はまず「観察」から着手する。

新しい家の三階は見晴らしが良く、ベランダに椅子を持ち出して本を読みながら、陽が沈んで月が昇ってくるまでの時間を充分に感じることができる。チェルフィッチュの『身体と関係のない時間』の音楽制作用に購入したEDIROL R-09をmp3録音モードにセットして、宵の口の一刻、自宅のベランダから聴こえる音の風景をモニターしてみた。家の右手に流れている、中村川に屋根を掛けている高速狩場線の自動車の音がほとんど途切れることなく、このサウンド・スケープの基調を作っている。表の道路の向こう側にある消防車から、さまざまな伝達を行なう声が屋根を回り込むようにして聴こえてくる。道で遊んでいる子供の声、鳥の鳴き声、電線を切る風の音。物干し台のハンガーの揺れる音。数軒先で建設中のマンションから聴こえてくる放水の音?
ホロコーストを録音するために/耳のために夜を用意する」*2

「そうでもないんじゃないか。すべての音は音楽として聴くことができるだろう? 逆にすべての音楽を音として、例えば、コンビニで流れているあのBGMなんて、耳に入っているんだろうが、実際、大抵の場合はまともに「聴い」ちゃいない。同じように、普段は聴き〔ママ〕流している自然の音も、状況によっては実に音楽的に聴こえるさ。(…)要は、自分の態度次第、心の持ちようなんじゃないの。音に原因があるんじゃなくて。音と音楽は本質的には同じものなんだと思うよ」

(…)たしかにどんな音でも音楽として聴くことができるさ、どんな景色でも絵画のように見ることができるのと同じように。だが、それは「絵画」という存在があってこそ「景色」(または「自然」か? ふん)を「絵画」のように見ることができるということであって、「音楽」というものの存在がないかぎり、音を音楽として聴くという発想は生まれえない。
「録音機器の前の、二つの椅子」

引用した二つの文章の間には実に十年もの時間の隔たりがあるが(どちらが新しいかはいうでまもない)、だからこそ著者の問題意識の一貫性を感じとってもらえるはずである。とりあえず漠然と限定するに任せるが、二〇世紀は、芸術の下に音と音楽の間で帰属(アトリビューション)が問題となった時代だった。人間の営みとしての音楽、特定の人間の意味・意図・志向・目的に基づき構成される音楽は、本書の用語では音の「人間化」或いは「抽象化」と解される。二〇世紀後期、猛スピードで音の「人間化」が進展するようになると、すべての音楽に共通するこのプロセス(生産過程)が、ジョン・ケージに始まり、ピエール・シェフェールリュック・フェラーリ武満徹から大友良英、杉本拓まで音楽家の方から根源的に問い直され、その結果、音楽の延いては音楽家自身のステータスが不安に晒された。無作為に録音された環境音は誰の演奏か。音=現実/意識されないもの、音楽=仮構/意識されたものという分割を可能にする自明性が崩壊して音楽は音楽それ自体のドキュメンタリーとして二重化された。「オペラ座を爆破せよ」(ブーレーズ)。人間化される以前の「事物(事象)」にいかに対処するか。つきつめるならそこに人間自身も含んだ事物との関係性に集約される問いは、何も音楽の領野に限定されなかった。「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」とある社会学者は警鐘を打ち鳴らしたし、映像の領野ではヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが、野外と屋内の往復のなかから光と映画の関係性を露出させた。さしあたり芸術(作品)の主体をめぐる承認闘争と呼んでおくことにするが、倫理的な課題を人間はテクノロジーの進展と軌を一にして背負うようになったのだ。

音は目的を持っていない――目的を持っているのはつねに人間である。音はそれが人間によって名づけられる以前から存在している。無名の音の集合体としての世界……。人間はその中から自分がうまく使えそうなものだけを取り出し、名前を付け、それを分類し、理解しようとする。こうした「音を飼い馴らす」作業を経ることで、ぼくたちははじめて音楽と呼ばれているようなものを手に入れることが可能となるのである。
 ケージが問題にしたのはこうした「音楽」を(まさに沈黙でもって)支えてきたこの音の刈り込み作業そのものの是非であり、(…)「その音」を「その音」として認識/体験することの倫理にその一生を捧げた。
「音楽における抽象と具象Ⅰ」

音楽が生成する瞬間へと遡行する試みは、原初の、始源の音の存在の方へと、ある意味では必然的に引き寄せられる。人間の知覚の未だ行き届かない世界そのものの響きであるような音とは、何とも秘境的、そして魅惑的であるにはちがいない。だがこの現象学は神学の様相を帯びる。はじめに光ありき、そして、はじめに沈黙ありき、というような。

2.メディオロジー現象学から認識論へ)

こうした合目的性を持たない音への反省は、本書のなかで複製技術の主題を通して何度も捉え直される。そこで音と音楽の本質的差異は、音=出来事の一回性と音楽=知覚・記憶の再起/反復の対立として描写される。このときの著者が採用する理論の裏地は、本書でもノートがとられているベンヤミンが一九三五〜三六年の時点で剔抉した複製技術時代の芸術と知覚のパースペクティヴから構成されている(「一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同様に絡まり合っている」『複製技術の時代における芸術作品』――断片にすぎないが、密接と同様の、一回性と一時性の微妙だが決定的な使い分けに注目されたい。また著者がレコードを写真と類比的に捉えているのも示唆的だが、必ずしもベンヤミンの見取図をなぞらないのが面白いところだ)。ベンヤミンの提起した問題系を継承するなかで、二つのものの対立は、両者を接続=分離する「と」によって明確化されると同時にズレて行く。音「と」音楽の間の「と」、は、媒介性の次元、耳であるだけでなく、録音機器及び再生機器としてあらためて見出される。音楽制作における記録と編集の水準の重視は、「レコード/アンプ/スピーカーによる音楽体験と、生演奏=ライヴによる音楽体験」(「録音椅子の前の、二つの椅子」)を相反させるのでなく、地続きのものとする見方に帰結する。

一度きりしか聴くことのできない「ライヴ」と繰り返し聴くことのできる「録音物」? いや、いや。こうした一見分かりやすい分類の、その「根拠/無根拠」自体をぼくたちは問題にしなくてはならない。
「同前」

 人間の知覚を媒介することなく、直接的な物質同士のやりとりによって、その場にあった音=運動の保存ができるということ。一回限りのものを、一回限りのものとして繰り返し聴くことができるということ。またそうした人間化されていない具体的な音を使って音楽を作ることが技術的に可能となるということ――こうした可能性は、(…)ただ単にすべての音を同じ場所に並べることで、人間によって作られた音とそうでない音のこれまでの区別を曖昧にさせてしまうのだ。
「同前」

前述した音と音楽の芸術(作品)のステータスをめぐる不断の弁証法は、作品の自律性の動揺となって現れる。知覚の延長物としての録音=再生機器が、音と音楽を一枚のスクリーンの上に平等に投射してしまうからである。ケージ以降、当然、そこで生演奏こそ音楽だとする予断は倫理的に許されない。作品の条件を問うにあたって、その自律性と整合性を劇場モデルないし美術館モデルに求めることはある種の反動にほかならない、とされる。この選択を著者は一貫して慎重に回避し、また「映画」から「映画館」の(「映画館」から「映画」の、ではない)追放さえ実験的に提言されるだろう(「同前」)。録音=再生機器のもたらす作品とリスニング環境の転覆を強調するとき、隠れた参照先となっているのはおそらくブレッソンの映画論ではないだろうか。

(…)マイクやレンズ、レコードやフィルムといった、近代がぼくたちの外側に作り出した知覚=記憶装置は、これまでの人間的な世界の外側へとぼくたちを連れ出してくれる。
Improve New Waves」

人間の知覚に、ではなく、レコードにのみ語りかける「自然」がある。(…)ぼくたちは、映画においては相当の地点まで探求されてきたその「写しこまれてしまった事象」をモンタージュする術を、まだほとんど知らないように思われる。装置の助けを借りて、環境の姿を人間が自分に向けて描写すること。
「『複製技術時代〔ママ〕における芸術作品』へのノート」

ここで大谷が注目し、ケージ(および、デレク・ベイリー)と若手即興家たちとのあいだに見出そうとしている差異は、佐々木敦が時に無造作に導入する「聴くこと」という漠然とした行為ではなく、(…)「レコード」=「録音物」=「スピーカーから出てくる音」をぼくたちがどのように聴き、それをどのように把握し、どのようにそれと関係を結びながら生き、演奏を続け、作品を作っていこうとしているのか、というところにある。
ジョン・ケージは関係ない」

3.二一世紀の言文一致(認識論から文学へ)

いまや普遍的なこの「環境」において、不毛と豊穣どちらでもあるこの同一の時間=空間において/のなかで、わたしたち自身もそこに折り込まれた要素として存在しながら、音と音をいかに均衡させるか、組み立てるかが問題となる。音と音楽との関係性は唯一の解を消失して、折衝の場へと差し向けられた。おそらくは永久に未完結の課題だけが未来から現在へと浸透するようになった。この不可逆的な事態の到来を前にしては、「と」を統御する術、第二の「自然」をフレーミングする術としてのモンタージュにすべては賭けられる。著者にとって、未来の音楽を予知或いは示唆しているのと思しいのが、「トータル・アルバム」という考え方を展開したとされる六〇〜七〇年代のマイルス・デイヴィスである(わたしたちとしては、作品を可能にする条件と向き合った音楽家としてほかにフランク・ザッパが挙げられていることには正当性を認めるとともに、そこにグレン・グールドも加えたい)。繰り返すなら、モンタージュとは音と音楽が、事象同士の平面を描くために必要な技術である。しかし音楽というジャンルではそれは未だにブラック・ボックスに等しい。フレーミングは限定化である以上、否定的には、実際に存在する音を知覚からオミット(オフ)する音響識別認識ソフト(大友良英)の慣性的=感性的作動に通ずる。音楽と関係を結ぶ行為は、意識的か無意識的かを問わず必ずこのフレーム化をともなっている。音楽におけるモンタージュが仮にもその資格を持つためには、音と音の間の力学、そして音と音楽の政治学に対する批判的視点を導き入れることが必須となる。それぞれが発明的・創造的であるほかない反省は、ミュージック・コンクレートからは「音響オブジェ」(シェフェール)と呼ばれる概念を生み、またシュルレアリスムではそれ相当する試みとして自動筆記が「思考の対象化、客体化」を照らしだした。再度繰り返すが、知覚=記憶装置の延長によって人間が事象の平面のなかで「非人間化」(著者はこの語を用いようとはしないが)されることを通して、音楽の絶対的主体・領事であるような「人間」の形態は実質的な機能を解体させられた。したがって別の形態を組み立て直さなければならなくなり、人間=音楽が人間=音楽(の盲点・無知・偶然性)に向けた闘争が始まる。著者にとって、即興音楽はこの不断の闘争を理論的、実践的に引き受けるモデルの位置にある。モンタージュを導きの糸として、また同時代の即興音楽をダイナモとして、広義の音楽経験に適用可能な生産過程の批判的点検を、本書はエクリチュールという名前で提案する。

 歌を唄う、ダンスを踊る、演奏をする、譜面にそれを採る、録音をする、レコードを作る、レコードを売り買いする、レコードを聴く、CDをコピーする、サウンド・ファイルを交換してミックスする、サイトからデータをダウンロードする、そして、これらの行為について文章で書き記してゆく……こういった作業はすべて、音楽をさまざまなやり方で対象化し、さらなる多様性の中に解きほぐしてゆく「エクリチュール」の一つとして捉えることができる。
「二重化された死の空間について」

エクリチュールとは字義的には書かれたものだが、また話し言葉でもある。話し言葉は書き言葉を相互に浸透するものとして捉える視点が、聴き手と作り手を調停する結び目がエクリチュールにほかならないからだ(両者に位階を設ける試みは、結果的に音と音楽との承認闘争の揺り戻しを繰り返すほかないだろう)。ここでエクリチュールに相当するとされる多様な手続きは、音楽作品をプロセスと捉える視点に基づいている。即興音楽の担い手の間で交わされた対話において譜面が掲載されていること、対話の相手に音楽と接点を持つ美術家もいること、別の記事の歌詞分析で「聴き取り」による転写がなされていること、これらは本書のアクチュアリティを明確に反映している。


貧しい音楽

大谷能生『貧しい音楽』月曜社、2007


*本書刊行と軌を一にして青山ブックセンターで行われた著者のトーク・イベント終了後、僕は若い男性に声をかけられた。こんなことは、経験上なく、まさに「言葉がみつからない」。呆然としてしまうのも問題なかった。K君とは二年以上前、数回会ったきりなのだから。もう一人のK君にいたっては初対面だった。会場を立ち去る間際出会った二人の同輩(と呼ぶことを許してもらいたい)と喫茶店へともつれこんだ談話はあつかった。そんな偶然を契機にして、一ヶ月前、この文は書かれた。トークイベントでも話題になった90年代以降の電子音楽と録音環境について触れることができていなかったり、修復すべき箇所も目立つが、ここに転載する。三人の共通項、期せずして不在の媒介者の役を引き受けてくださった市村弘正先生には感謝申し上げなくてはならない、と思う。

*1:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』松浦寿輝訳、筑摩書房、1987

*2:以下の引用はすべて大谷能生『貧しい音楽』より